1968年生 埼玉県出身
東亜学園→日本大学→富士重工業硬式野球部(現 SUBARU)選手、監督就任
その後、市立太田(旧 太田市商)監督
・2010年~2014年9月 富士重工業硬式野球部(現 SUBARU)監督
・2016年1月~2018年9月 市立太田(旧 太田市商)監督※社から太田市への出向
【監督としての主なタイトル】
2010年 日本選手権:第37回大会(5年連続13回目出場)
JABA大会:第65回東京スポニチ大会/優勝
2013年 日本選手権:第39回大会(3年ぶり14回目出場)/準優勝
JABA大会:第3回関東選手権大会/優勝
2014年 都市対抗:第85回大会(2年ぶり25回目出場)/準優勝
投手として、群馬県立伊勢崎東高校→國學院大学→富士重工業硬式野球部(現 SUBARU)選手、引退後、監督に就任
・1988年~1995年 硬式野球部投手として8年間在籍(1993年は主将を務める)
・1996年~1998年(3年間)硬式野球部 ピッチングコーチ
・1999年~2001年(3年間)硬式野球部 ヘッドコーチ
・2014年10月~ 2016年6月 硬式野球部監督
【主な成績】
・1991年 スポニチ大会準優勝&敢闘賞
・1991年 関東リーグ優勝&最高殊勲選手
・1994年 大阪大会優勝&最高殊勲選手
選手として都市対抗野球大会に6回出場(うち補強選手3回)
1968年、創部3年目の桐蔭学園野球部の監督に就任
1971年、第53回全国高校野球選手権大会に初出場、初の全国制覇を達成
1984年、藤嶺藤沢の監督に就任し、翌85年には夏の甲子園出場に導く
武相の監督も歴任するなど約30年にわたって高校野球の発展に貢献
2006年、「育成功労賞(旧イヤー・オブ・ザ・コーチ)」を受賞
1958年生まれ。鎌倉学園高、早大を卒業後は東芝でプレー(高校2年夏までショート
新チームから東芝2年間まで捕手、秋以降外野にコンバート)し、1982年の都市対抗優勝に貢献した。翌年83年に横浜商大高の監督に就任すると、89年春、93年夏、2003年夏の甲子園出場。15年夏限りで勇退する。
教え子には田澤純一(元レッドソックスほか)らがいる。その後、野球部長を半年間、18年4月から21年3月まで同部顧問を務めた。日本高校野球連盟から永年にわたって高校野球の発展に貢献に対して、2020年度「育成功労賞」を受賞。
1983年横浜商業高校で春・夏甲子園連続準優勝
日本体育大学(首都大学野球リーグ)首位打者1回、ベストナイン2回受賞
大学野球日本代表、世界選手権大会出場第3位
NTT東京、都市対抗野球大会10年連続出場
1996年 アトランタオリンピック野球銀メダリスト 日本代表主将
1985年、作新学院を卒業後、亜細亜大学進学し、社会人野球では、NTT東京で活躍。
また、お二人の息子さんも作新学院で活躍した。
兄:勇介(拓大)95回大会・選手権大会 ベスト16
弟:虎太郎(日体大)98回大会・選手権大会 優勝
1954年生まれ、高校3年時、夏 昭和47年第54回全国高校野球選手権大会に出場。
当時は北関東大会(栃木、群馬)を勝ち抜き甲子園出場。
奇しくも沖縄返還の年にあたり、南九州の名護高校と対戦し勝利。
(この試合が第1回目の甲子園黙祷試合にあたる。ライトのポジションで黙祷を行う)
チームメートには、元阪急ブレーブス、ドラフト第一指名の石田眞投手がいる。
卒業後は日本体育大学に進学し、昭和52年、栃木県の体育教員となる
指導者としては、足利工業高校、佐野高校、足利南高校で定年退職となる
足工時代に、第64回、66回、69回に指導者として3度の甲子園経験をする
新座中 ⇒ 狭山ヶ丘高 ⇒ 亜細亜大
大学・通算(81試合 .253 6本 45点)、二部通算(9試合 .313 0本 2点)
1996年 東都大学・春季 ベストナイン(外野)
1997年 全日本大学選手権 準優勝 〃 東都大学・秋季 ベストナイン(遊撃)
1998年 NTT東京入社 アジア大会 日本代表 銀メダル
1999年 シドニー五輪予選 日本代表
2002年、2003年 都市対抗野球 優秀選手
2003年 社会人ベストナイン(二塁手)
2012年 現役引退
投手として、東農大二高からNTT東京でプレー
東京農大二高時代に全国高校野球選手権で甲子園出場、日米高校選抜に出場。
卒業後、社会人時代は、NTT東京で都市対抗野球大会出場、日本選手権出場、アジア大会出場。現在は、立川ボーイズのコーチとして、少年野球の指導に携わっている。
1993年 国士舘高校 主将 キャッチャー
93年第65回春の選抜甲子園出場
主将として選手宣誓を行い、ベスト4まで進出
卒業後、国士舘大学に進出
東都大学2部リーグで四年生の春季リーグで首位打者を受賞