1968年、創部3年目の桐蔭学園野球部の監督に就任する。
1971年、第53回全国高校野球選手権大会に初出場、初の全国制覇を達成し、1984年、藤嶺藤沢の監督に就任し、翌85年には夏の甲子園出場に導いた。武相の監督も歴任するなど約30年にわたって高校野球の発展に貢献に対して、2006年、「育成功労賞(旧イヤー・オブ・ザ・コーチ)」を受賞する。
湘南高校、慶應義塾大学野球部時代を通じて、投手・外野手として活躍した。
桐蔭学園高校野球部副部長、県立厚木東高校監督、慶應義塾中等部副部長を歴任した後、1991年に慶應義塾高校野球部監督に就任する。2015年夏まで監督を務める。監督として、選抜高校野球3回(77回大会ベスト8)、夏の甲子園1回(ベスト8)、合計4回甲子園出場する。1998年アメリカ大学野球界の名門カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)野球部コーチとして一年間チームに帯同する。
1958年生まれ。鎌倉学園高、早大を卒業後は東芝でプレーし、1982年の都市対抗優勝に貢献した。1983年に横浜商大高の監督に就任すると、89年春、93年夏、2003年夏の甲子園出場。15年夏限りで勇退する。
教え子には田澤純一(元レッドソックスほか)らがいる。その後、野球部長を半年間、18年4月から今年3月まで同部顧問を務めた。日本高校野球連盟から永年にわたって高校野球の発展に貢献に対して、2020年度「育成功労賞」を受賞。
1975年 8月12日生
新座中 ⇒ 狭山ヶ丘高 ⇒ 亜細亜大
大学・通算(81試合 .253 6本 45点)、二部通算(9試合 .313 0本 2点)
1996年 東都大学・春季ベストナイン(外野)
1997年 全日本大学選手権準優勝 〃 東都大学・秋季ベストナイン(遊撃)
1998年 NTT東京入社 アジア大会日本代表 銀メダル
1999年 シドニー五輪予選 日本代表
2002年、2003年 都市対抗野球 優秀選手
2003年 社会人ベストナイン(二塁手)
2012年 現役引退
日立一高卒業後、横浜市立大学に進学卒業後、日産自動車経て監督に就任する。
日産自動車監督時代には、昭和48年 第44回 都市対抗野球で準優勝という結果を残す。
調布リトル・シニアから山梨学院大付属高校に進学
投手 1995・1996年の夏の県大会連覇に貢献、
1996年ヤクルトスワローズへドラフト1位で指名入団しかし、
ケガのため1軍での登板はなし、2000年 現役引退
指導経歴
~2014年春 山梨学院大学・コーチ
2014年春~2017年3月 山梨学院大学・監督
2017年4月~ 山梨学院大学・コーチ
足利工業高校3年時、夏 昭和47年第54回全国高校野球選手権大会に出場する。
当時は、北関東大会(栃木、群馬)を勝ち抜き甲子園出場を果たす。奇しくも沖縄返還の年にあたり、南九州の名護高校と対戦し勝利する。(この試合が第1回目の甲子園黙祷試合にあたる。ライトのポジションで黙祷を行う)甲子園3回戦で中京高校に敗退した。
チームメートには、元阪急ブレーブス、ドラフト第一指名の石田眞投手がいる。
作新学院 江川卓が一学年下になる。卒業後は、日本体育大学に進学し、昭和52年、栃木県の体育教員となる。指導者としては、足利工業高校、佐野高校、足利南高校で定年退職となる足工時代に、第64回、66回、69回に指導者として3度の甲子園経験をする。
1985年、作新学院を卒業後、亜細亜大学進学し、社会人野球では、NTT東京で活躍。
また、お二人の息子さんも作新学院で活躍した。
兄:勇介(拓大)95回大会・選手権大会 ベスト16
弟:虎太郎(日体大)98回大会・選手権大会 優勝
大阪出身のアコギ弾き語りメッセージソングライター。高校の校歌を歌う人。夢は高校野球のテーマソングを歌うこと。好きなものは勢いのある人と勢いのあるドライヤーと勢いのあるジェットタオル。得意技は昼夜逆転。
高校時代は吹奏楽部に所属。当時、野球部が甲子園へ出場したため、アルプスで応援したことがきっかけで、高校野球にハマる。Twitter、Youtubeにてアコースティックギターで弾き語る「甲子園出場高校の校歌」の動画が少しずつ反響を呼んでいる。出身校は大阪桐蔭。
現在は拠点を首都圏へと移し都内でフリーで活動中。持ち前の明るく元気な関西キャラとは裏腹に、メッセージを込めたその歌詞で夢や愛への想いや葛藤を聴き手の心に刺さるように語りかけてゆく。